2009/12/31

週刊朝日 2010/1/1・8

「人助け体質」から抜けられず・・・





冒頭、主人公の「私」は、待ち合わせのファミリーレストランで、こういう店が苦手なのだという。理由は、人を助けたくなるからだ。なにそれ?と食いつかせる導入部がうまい。


「編集者としゃべっていたときに、彼のお父さんが、ファミレスはまわりの話し声が耳に入るからいやだという。そのちょっとした話がヒントになりました」



編集者との雑談に、自身の経験を加味させてみた。伊坂さんは、困っている人を目の前にすると「何かしないといけない」気持ちにとらわれ、おちつかなくなる。そのSOSセンサーは、母親に由来するようだ。お節介なくらい、手を差し伸べる人だとか。


「いまでは、母のそれは自分が救われたいためにやっているんじゃないかと、距離を置いてみるようにはなったんですが。じゃ、ぼくがいい人かというと、そうでもない。ふだんのぼくは、なるべく暗いニュースには耳を塞いで、見ないようにしている」



厄介な「人助け体質」は、今回の主人公「私」に反映されている。ひきこもりの若者の部屋に「私」が、悪魔払いにあらわれる場面だ。本場でエクソシストの修行を積んだと自称し、黒の背広に聖書と聖水を携えている。ここで語られる「私」の考えがふるっている。いまさらひきこもりの原因を詮索するよりも、いっそ悪魔がとりついたと宣告されたほうが家族も楽なのでは。トンデモふうだが、そういう発想が救済になるかもと思わせるあたりが、この小説のおもしろいところ。「私」にしても、悪魔払いを信じているわけではない。家電量販店のエアコン担当のかたわら、なりゆきではじめた副業で「人を救いたい」呪縛から抜けられなくなったとの設定だ。


「新聞連載のときには、実際の家族はどう考えているんだろうかとナーバスにはなりました。でも、エクソシストまでいくと笑ってもらえるんじゃないか」



伊坂さんには、支えにしてきている言葉がある。「小説というのはかなしみを抱えている人に寄り添う物だ」。作家として迷いがあったときに伊集院静氏からかけられ、しっくりきたのだという。ひきこもってしまえば「自分」しか見えなくなる。しかし、悩みを抱えた仲間が数多くいる。本書には外に目を向け、孤独の重荷を軽くする効果がある。そう期待を寄せたくなる。